この記事では『愛情過多症』と呼ばれる
心のパターンについて記しています。
愛情過多症とは
『代理行為(だいり・こうい)』を意味します。
代理行為ついては、
本文の中で詳しく触れています。
愛情過多症とは
『愛情過多症』とは
自分自身が傷ついている心を抱えていて、
傷ついている人をお世話することで
自分を癒す代わりをしようとする
無意識の心のパターンを云います。
「求めているものは得られない」と
心のどこかで悟ったとき
人はその代わりを(無意識のうちに)
別の対象に求める場合があります。
これを代理行為と言います。
たとえば
「傷ついている人、困っている人をお世話していると
何故か心が落ち着く、安心する」
・・・という項目に○を付ける人は
程度の差こそあれ、
愛情過多症の傾向を持つ人かもしれません。
もちろん、傷ついている人を思いやる行為は、人として大切なものです。
しかし、後で詳しく触れていますが
愛情過多症から行われる場合には
人間関係で葛藤を生じやすくなります。
〝重症な人〟を求める
愛情過多症の心がとても深い場合には
自分よりも傷ついている人、
自分よりも「重症」な人を
お世話する相手として選んだり
求めるようになりがちです。
何故なら、自分よりも「軽症」な人では
「自分を癒す代わり」とはならないからです。
それは表現を換えると・・・
傷ついている人を必要としている人
・・・とも云えるかも知れません。
この場合の軽症・重症とは
あくまで自分基準の主観的なものですが。

代理行為とは : 求めても得られなかったもの
自分を癒す代わりの行為とは
愛情過多症の形ばかり、ではありません。
上でも記したように、
わたしたちは
求めても得らなかった〝何か〟を、
無意識のうちに
「別の対象で穴埋めしようとする」こと。
あるいは、
「別の対象に代わりを求めようとする」ことがあります。
たとえば、「肩書き」や「地位」だとか
それに類するものが、
代理行為の対象となっていることがあります。
あるいは、人との関係を離れて
物との関係に向かう人も存在します。
物との関係 (物への偏愛)によって
心の癒しをおこなっているケースです。
このように、わたしたちには
様々なあり方が存在しています。
そして、この場合の代理行為とは
ご本人自身も自覚していないような
「切実な意味」を持つことになります。

代理行為に欠けるもの
しかし残念なことに、
愛情過多症に限らず『代理行為』からは
真の満足を得ることはできない
・・・という現実があります。
〝代理〟であるが故に
どこまでやっても
「もうお腹いっぱい、もうここ迄でいい」
とはならずに
比喩的に表現すると、
食べても食べても、ひもじさ(空腹感)が
真に満たされることはありません。
そのため、その行為は
反復され続けることになります。
たとえば、
サッカーのカズ・三浦知良選手に
「反復され続ける代理行為」を見るのは
筆者だけでしょうか・・・。
代理行為による反復行為が
「依存症」と誤解される場合があります。
代理行為とは
求めても得られなかったものを
別のもので埋めようとする行動であり、
依存症のような生理的・嗜癖的反応とは、質的に異なります。
代理行為としての繰り返し
愛情過多症から少し外れますが
繰り返される痴漢・盗撮などにも
代理行為による「反復強迫」
という意味合いが
とても色濃く存在するケースがあります。
盗撮行為が奥さんの知ることとなって、
「なにかストレスか問題があるなら、ちゃんと解決して欲しい」
そう奥さんに強く求められて
カウンセリングにお越しになる男性も
いらっしゃいます。
少しずつ少しずつ
ご一緒に心を整理しながら
やり直しの道を歩んで行かれます。
精神科医として著名な中井久夫氏が
次のように語っています。
真の満足が得られたら、その追求は止まるというのはサリヴァン(米国の著名な精神科医)の洞察である。「代用満足」では無限追求が起こる。
十分な満足ではないので、「もっともっと」というささやきが止まらないからである。
中井久夫 精神科医
愛情過多症の問題とは
愛情過多症は
対人援助職やボランティア活動など
「人を援助する立場」の人の中にも見られます。
そして愛情過多症の場合に
人間関係の上で
葛藤や問題が現れやすいのは
相手に向ける(与える)行為や行動が
一方通行になるときです。
つまり
〝相手が求めているもの〟
〝相手が必要としているもの〟と
自分が与えるものとが
一致してくれたら良いのですが
〝相手が求めているもの〟ではなく
自分が与えたいものが優先される時、
相手からすると
むしろ「ありがた迷惑」になったり。
場合によっては
相手の心を傷つけることになります。
これはひとことで言うと
「自分感情優先」がもたらすものです。
自分感情優先の弊害とは
上のような例は
社会的な規模のケースでは
東北の震災後にとてもたくさん
T V等を通して見ることになりました。
あの頃、被災地域の中学・高校生たちが
ETV (教育テレビ)の或る番組の中で
ひどく憤っているのを目にしました。
しかし善意でやってくれている、と思うと
援助を必要としている側では
困惑や憤りが生じたとしても、何も云えなくなります。
また場合によっては
〝いらないもの〟と
〝求めているもの〟とが一緒くたにして
与えられることもあります。
云うまでもなく、善意そのものは
否定されるべきものではありません。
ただし、自分感情優先の場合には
「自分の感情を満たすこと」ばかりが優先されることになります。
たとえば、田中角栄氏は
このように語っていました。
人はつい、自分が与えたいものを相手に押し付けてしまいがちだ。 だが、それはただの自己満足で、相手の心には響かない。
いま、その人が何を必要としているのか、何を欲しているのか・・・それを見抜く眼が必要だ。
その判断ができるかどうかで、あんたの評価は天と地ほども変わってくるんだ。
上でも記したように、
愛情過多症は、対人援助職にいる方の中にも見かけることがあります。
カテゴリー【こころの物語】
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