献身が燃え尽きてしまう時 : 『身体が「ノー」と言うとき』を読んで

カウンセリング Essay

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この記事について・・・

身体が「ノー」と言うときという本をご存じでしょうか?
(日本教文社・伊藤はるみ訳)

著者はガボール・マテという人です。

『身体が「ノー」と言うとき』の中には
ホーキングの元奥さん・ジェーンのことも、書かれています。

ジェーンのことをこの本で読みながら
わたしの脳裏には、なぜか
赤塚眞知子さんのことが浮かんでいました。

赤塚眞知子さんは、
漫画家・赤塚不二夫氏の再婚相手です。

この記事は、
身体が「ノー」と言うとき』を読みながら
「献身が燃え尽きてしまう時」をテーマに、
「三人の女性」を綴ったものです。

最後までお読みいただけると、幸いです。

国立精神・神経医療研究センター
「こころ」の状態は神経系・免疫系・内分泌系を通して身体に影響を及ぼし、種々の病気を発症させる。

ジェーンとホーキング

『身体が「ノー」と言うとき』の中に、
スティーヴン・ホーキング
彼の元奥さんジェーンのことが書かれています。

ジェーンの顔写真

ホーキングとは、ご存じのように
有名な「車椅子の宇宙物理学者」です。
2018年に亡くなりました。

この本によると、
彼が知的な才能を開花させたのは
21歳で病気を発症してからのことだといいます。

そのホーキングを支えたのが
元夫人のジェーンでした。

ガボール・マテがジェーンのことを
このように書いています。
(伊藤はるみ 訳)

ジェーンが自分の人生を彼に捧げ、孤軍奮闘していなければ、スティーブンはあれほど輝かしい成功を、おさめることは出来なかったろう。

ジェーンと赤塚眞知子さん

ジェーンのことを、この本で読みながら
わたしの頭に何故か浮かんでいたのが
漫画家・赤塚不二夫の二番目の奥さん
赤塚眞知子さんでした。

   
1987年:結婚当時の赤塚不二夫と眞知子さん
「文藝春秋」写真資料部から

赤塚眞知子さんはクモ膜下出血を発症し、
平成18年(2006)7月に亡くなっています。

56歳という年齢でした。

わたしは、新聞で偶然に
眞知子さんの記事を読んでいました。

それは「追悼」という夕刊のコラムで、
その年に亡くなった著名人を
紹介しているものです。

      Image for decoration(水仙の花)

赤塚眞知子さん

ところで「追悼」の記事は
こんなふうに書かれています。
(読売新聞の夕刊から)

さあボクちゃん、お客さんが来てくれましたよ〜」
昨年秋、赤塚不二夫さん(70)の病室を訪ねた時、眞知子さんは優しくベットの夫に語りかけていた。
2002年に脳内出血で倒れて以来、不二夫さんの表情は動くが、意思の疎通は難しい
「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」
不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、離婚した前妻の江守登茂子(66)さんだった。
不二夫さんの数多い"恋人"の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った
アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時仕事が激減していた漫画家の為に、実家から借金までした
登茂子さんを 「ママ」 と呼んで慕い、長女りえ子(41)さんを、実の子のようにかわいがった。
「生き甲斐は赤塚不二夫」と語るほど、夫とその才能を誰よりも愛した
99年にフジオ・プロダクションの実質的な社長になってからは、体調を崩しがちな夫の代理として全集の刊行や、赤塚不二夫会館の設立などに奔走した。
6月22日事務所で頭痛を訴えて、夫と同じ病院に入る。同月末、再度の発作で意識不明になった。

眞知子さんは、その年の7月に亡くなり、
不二夫氏も同じ年に亡くなりました。

ちなみに、先妻の江守登茂子さんは
不二夫氏が亡くなる三日前に
他界していたそうです。


クモ膜下出血は、心身医学的には
心身の深い疲労と
強い情動的ストレスが
発病の引き金にもなる病気です。

つまり、心身症としての側面を持つ病気、と云われます。


たまたま筆者の近所で、同じような時期に
二人の女性がクモ膜下出血で倒れ
亡くなっています。

お二人とも中高年の方です。

後で知った話によると、
お二人とも家庭・夫婦問題で
大変な葛藤状況にあったようです。

赤塚不二夫写真

赤塚不二夫氏のブログから

2000年にアルコール依存症で入院した赤塚不二夫氏が、退院直後に書いたプログには、
次のような記述が見られます。

帰りはブラブラ散歩しながら帰ってきたんだ。ボクはホントウは散歩なんてバカバカしくって大キライ。
真知子がリハビリの為に歩け歩けってうるさいから、仕方なく歩いているんだ。やっと無罪放免で釈放(退院)になったっていうのに。

退院3日目で、もうかなりデキ上がってしまったのだ。これではダメだと思いながらも、ついついおチャケが進んでしまう…反省反省…なのだ。
ちょびちょび飲むんだったら死んだほうがマシなのだ。ドンドン飲まないとダーメなのだ。…なんて言ってたら、真知子にぶっとばされるのだ。

真知子がまだ風邪ぎみなので、どっかに遊びにいくことも出来ないんだ。
真知子はいつもボク以上に忙しくって、立ったままごはんを食べているようなカンジ。

脳出血で倒れた夫の看病と
仕事その他による疲労はもちろんですが
孤立無援感だとか、
もしかすると
深い無力感と虚しさに似たものを
心の内に抱えるに至ったのでしょうか・・・

もしそうだったとしても、
周囲の人の前では、そんな素振りは
微塵も見せなかったことでしょう。

深い虚しさと無力感を抱えながらも
それでも頑張りつづけている時
わたしたちの身体は
否認による葛藤の中で、
少しずつ蝕まれていくことがあります

ジェーンの場合

それでは、ホーキングの元夫人ジェーンは
どうだったのでしょう。

ガボール・マテの『身体が「ノー」と言うとき』から、引用させてもらいます。
(伊藤はるみ 訳)

果たして重荷に耐えられるだろうかと、彼女が不安になったとき、友人たちは「彼があなたを必要としているなら、やるべきよ」と言った。
ジェーンの助けがなかったら、彼はまず間違いなく(研究を)続けることはできなかった、そうホーキングの二人の伝記作家が書いている。
ふたりは愛し合っていたが、ジェーンは次第に燃え尽きたような気持ちになっていく
彼女は1965年、まだ婚約中だった彼のアパートへ行った時のことを回想している。
その時、彼女は腕を骨折していた。
「彼は、就職のための書類をタイプさせるつもりだった。白いギブスをつけた姿を見て彼が、一瞬うろたえたのがわかった。
ほんのひと言でいいから、いたわりの言葉をかけて欲しいという私の願いは叶えられなかった」
このエピソードは、二人の関係をよく物語っている。
二人が結婚すると(ホーキングの)家族は、介護から完全に手を引いた。
ジェーンは夫だけでなく三人の子どもも、一人で見なければならなかった。
彼女は、次第に自分が消滅していくのを感じた。自殺したいとさえ思った
「わたしは限界だった、でも、スティーヴンは少しでも自分が譲る形の提案に対しては、絶対に拒否した。」とジェーンは書いている。
一度などは、義母はジェーンにこんなことを言った。「あなたを心から好きだと思ったことは一度もありませんよ。あなたはうちの家に合わないの」
これが、自分を犠牲にして、十年間も息子に尽くしてくれた相手に言った言葉なのである。
結婚生活の終わり近く、離婚するまでの間、ジェーンが最後まで彼の世話を続けられたのは新しい恋人のおかげだった


自分が 〝今ここにいる〟ことを
相手から認められ
なにげない触れ合いだったり
愛情や思いやりを交換し合うことで
心は生きてゆくことが出来る

人は食べ物がなくては生きてはいけない。

でも、心は
食べ物だけで生きているわけではない

エピローグとして :
ソーニャと『クロートキイ』

ジェーンそして赤塚眞知子さんという
他人には容易に真似のできない
勁(つよ)い生き方を貫いた二人の女性に触れながら

私にはソーニャのことが
思い出されていました。

ソーニャとは、ご存じのように
ロシアの作家ドストエフスキーが
『罪と罰』の中で生み出した女性です。

ドストエフスキーはソーニャに
ロシア語で『クロートキイ』という形容詞を与えました

「罪と罰」の中でソーニャは
ラスコーリニコフの魂を見抜き、
「私が殺したと、皆に聞こえるように言いなさい」と迫ります。

のちに、酷寒のシベリヤに流刑さたラスコーリニコフは、
病院に入院した時に、病室の窓から偶然
シベリアの病院の門のところに、
ソーニャがひとりでじっと立っているのを目にします

山城(やましろ)むつみ氏は
「クロートキイ」というロシア語について
このように語っています。

(クロートキイとは)
おとなしい、やさしいと訳すしかない言葉だが、たんに柔和だとか、口答えすることなく従順に従う、という意味ではない
それは内に秘められた「激しいもの」が、善良さそのものとして現れるありようを呼ぶのである。

山城むつみ 文学評論

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