身体が「ノー」と言うとき 〜存在感覚の喪失〜

カウンセリング Essay

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  存在感覚と喪失感

Image for decoration(白と水色の花)

 はじめに

ガポール・マテが書いた
『身体が「ノー」と言うとき』の中に

スティーヴン・ホーキングと
彼の元奥さんジェーンのことがあります。

ホーキングとは、ご存じのように
有名な「車椅子の宇宙物理学者」
2018年に亡くなっています。

彼が知的な才能を開花させたのは
21歳で病気を発症してから後のことだといいます。

そのホーキングを支えたのが
前夫人のジェーンでした。

ガポール・マテがジェーンのことを
このように書いています。

ジェーンが自分の人生を彼に捧げ、孤軍奮闘していなければ、スティーブンはあれほど輝かしい成功を、おさめることは出来なかったろう。

ジェーンの写真

ジェーンと赤塚眞知子さん

ジェーンのことを、この本で読みながら
わたしの頭に何故か浮かんでいたのが

漫画家・赤塚不二夫の二番目の奥さん
赤塚眞知子さんでした。

赤塚眞知子さんはクモ膜下出血を発症し、平成18年7月に亡くなっています。

56歳という年齢でした。

わたしは、新聞で偶然に
眞知子さんの記事を読んでいました。

それは「追悼」という夕刊のコラムで、
その年に亡くなった著名人を
紹介しているものです。

      Image for decoration(水仙の花)

赤塚眞知子さん

ところで「追悼」の記事は
こんなふうに書かれています。

さあボクちゃん、お客さんが来てくれましたよ〜」
昨年秋、赤塚不二夫さん(70)の病室を訪ねた時、眞知子さんは優しくベットの夫に語りかけていた。
2002年に脳内出血で倒れて以来、不二夫さんの表情は動くが、意思の疎通は難しい。

「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、離婚した前妻の江守登茂子(66)さんだった。
不二夫さんの数多い"恋人"の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った。
アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時仕事が激減していた漫画家の為に、実家から借金までした。

登茂子さんを 「ママ」 と呼んで慕い、長女りえ子(41)さんを、実の子のようにかわいがった。
「生き甲斐は赤塚不二夫」と語るほど、夫とその才能を誰よりも愛した。

99年にフジオ・プロダクションの実質的な社長になってからは、体調を崩しがちな夫の代理として全集の刊行や、赤塚不二夫会館の設立などに奔走した。
6月22日事務所で頭痛を訴えて、夫と同じ病院に入る。同月末、再度の発作で意識不明になった。

クモ膜下出血は、心身医学的には

心身の深い疲労と
強い情動的ストレスが
発病の引き金になることの多い病気です。

つまり、心身症として
発症することの多い病気と云われます。

たまたま筆者の近所で、近い時期に
二人の女性がクモ膜下出血で倒れ
亡くなっています。

お二人とも中高年の方です。

後で知った話によると
お二人とも家庭・夫婦問題で
大変な葛藤状況にあったようです。

      赤塚不二夫写真

赤塚不二夫のブログから

2000年にアルコール依存症で入院した赤塚不二夫が、退院直後に書いたプログには
次のような記述が見られます。

帰りはブラブラ散歩しながら帰ってきたんだ。ボクはホントウは散歩なんてバカバカしくって大キライ。
でも真知子がリハビリの為に歩け歩けってうるさいから、仕方なく歩いているんだ。やっと無罪放免で釈放(退院)になったっていうのに。
退院3日目で、もうかなりデキ上がってしまったのだ。これではダメだ、と思いながらもついついおチャケが進んでしまう…反省反省…なのだ。
ちょびちょび飲むんだったら死んだほうがマシなのだ。ドンドン飲まないとダーメなのだ。…なんて言ってたら、真知子にぶっとばされるのだ。
真知子がまだ風邪ぎみなので、どっかに遊びにいくことも出来ないんだ。
真知子はいつもボク以上に忙しくって、立ったままごはんを食べているようなカンジ。

脳出血で倒れた夫の看病と
仕事その他による疲労はもちろんですが

孤立無援感だとか、
もしかすると
深い無力感と虚しさに似たものを

心の内に
抱えるに至ったのでしょうか・・・

もしそうだったとしても、
周囲の人の前では、そんな素振りは
微塵も見せなかったことでしょう。

Image for decoration(紅葉の集まり)

ジェーンの場合

それでは
ホーキングの元夫人ジェーンは
どうだったのでしょう。

ガポール・マテの
『身体がノーと言うとき』から、
少し引用してみます。翻訳・伊藤はるみ

果たして重荷に耐えられるだろうかと、彼女が不安になったとき、友人たちは「彼があなたを必要としているなら、やるべきよ」と言った。
ジェーンの助けがなかったら、彼はまず間違いなく(研究を)続けることはできなかった、あるいは、続けようという意志を持つことすら出来なかったろう。そうホーキングの二人の伝記作家が書いている。
ふたりは愛し合っていたが、ジェーンは次第に燃え尽きたような気持ちになっていく。

彼女は1965年、まだ婚約中だった彼のアパートへ行った時のことを回想している。その時、彼女は腕を骨折していた。
「彼は、私の秘書としての腕前を使って、就職のための書類をタイプさせるつもりだった。白いギブスをつけた左腕のふくらみを見て彼が、一瞬うろたえたのがわかった。その顔を見て、ほんのひと言でいいから、いたわりの言葉をかけて欲しいという私の願いは叶えられなかった」
このエピソードは、二人の関係をよく物語っている。

彼女は夫と共に世界中を回ったが、それは数えきれないほどの困難と出会う毎日だった。その困難は、ずっと後になって彼が名前を知られ、本が売れるようになってやっと、幾分かは避けられるようになったのである。

二人が結婚すると(ホーキングの)家族は、介護から完全に手を引いた。
ジェーンは夫の世話だけでなく三人の子どもの面倒も、一人で見なければならなかった。

彼女は、次第に自分が消滅していくのを感じた。自殺したいとさえ思った。
「わたしは限界だった」とジェーンは書いている。
一度などは、義母はジェーンにこんなことを言った。「あなたを心から好きだと思ったことは一度もありませんよ。あなたはうちの家に合わないの」これが、自分を犠牲にして、十年間も息子に尽くしてくれた相手に言った言葉なのである。

結婚生活の終わり近く、離婚するまでの間、ジェーンが最後まで彼の世話を続けられたのは新しい恋人のおかげだった。

『身体がノーと言うとき』日本教文社

存在感覚と喪失感

人は、自分が "今ここ" にいることを
相手から認められ

愛情や思いやり、
なにげない触れ合いを交換し合うことで
生きてゆくことが出来る。

それに支えられている。

人間は食べ物がなくては
もちろん生きてはいられない。

でも、食べ物だけで
生きているわけではない。

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