好きな本の好きな一節



水村美苗 『日本語が亡びるとき』

認識というものは、しばしば途方もなく遅れて訪れる。

きっかけとなった出来事や、会話、あるいは光景などから、何日、何年・・・場合によっては何十年もたってから、ようやく人の心を訪れる。

人には知らないうちに植えつけられた思いこみ、というものがあり、それが〝真実〟を見るのを、拒むからである。
人は思いこみによって、考えることを停止する。

たとえ〝真理〟を垣間見る機会を与えられても、思いこみによって見えない。
しかも、なかなかその思いこみを捨てられない。

〝真理〟というものは、時が熟し、その思いこみをようやく捨てることができたとき、はじめてその姿・・・〝真理〟のみが持ちうる、単純で、無理も矛盾もない、美しくもあれば冷酷でもある、その姿を現すのである。

そして、そのとき人は、自分がほんとうは常にその〝真理〟を知っていたことさえも、知るのである。


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小林秀雄 『信ずることと考えること』

「考える」という言葉について、宣長(本居宣長・もとおり のりなが)がどう捉えていたか、お話したいと思います。

「考える」ことを、昔は「かむかふ」と言った。宣長によれば、最初の「か」には特別な意味はなく、「む」とは〝 み・身〟であり、「かふ」とは、交ふ。つまり〝交わる〟ということです。
考えるということは、自分が身をもって相手と交わることだ、と宣長は言っている。

対象を向こうに置いて、こちらから観察し解釈するのは考えることではない。
対象と私とが、ある親密な関係に入り込まなくては、考えることにはならないのです。だから人間について考えるということは、宣長によると、その人と交わることなのです。

人間を考える時、人間の精神というものを考えなければならない。この世に生きたその人間の精神を考える時には、どうしても〝科学〟の方法ではできない。その人と交わるしかないんだ。つまり、その人の身になってみるということだね。だから、考えるためには非常な想像力が要ります。

たとえば一口に科学というけれども、科学においても、発明をした人とか発見をした人は皆んな、長い時間をかけて、対象を本当の意味で〝考えて〟きたのです。
自分が扱っている対象と、深く親身に付き合い、交わってきた。



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