
あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、お話しできそうです。
アンネ・フランク

| はじめに |
心理療法(カウンセリングと同じ意味)に志す者なら、青年期・壮年期には一日七・八時間、臨床に打ち込める時間を持てたら幸せです。
職人やスポーツ選手の世界では、天賦の才に加えて、とことん修練を重ねた者が名人と呼ばれるようになる。心理療法の世界とて、例外ではないでしょう。
難しい例も敬遠しないで多数例の経験を積まなくては、いつまでたっても、腕の立つ心理療法の職人にはなれない、と信じます。
下坂幸三・精神科医 / 心理療法家
カウンセラーとは臨床家(職人)
と呼ばれる者たちに属しています。
では、カウンセラーにとって
本質的に〝いい仕事〟をするとは
どのようなことなのでしょうか。
そうしたことを、
優れた臨床家が語る言葉から
考えてみたいと思います。
下記の文中にある、精神療法・心理療法・治療・患者・治療者などの言葉は、カウンセラーやカウンセリング、クライエント(相談者)などに、適時置き換えていただくことを望みます。
精神療法も心理療法も、実は同じ言葉を日本語に訳したもので、医者は精神療法という言葉を好みます。
中井久夫
(臨床家というのは)自惚れることのできない存在である。説明は必要あるまい。
私は学生たちに、自惚れたい人、出たがり屋には向かない。そういう人が臨床に来ても、いつまでも不満を味わうと思う、と言っている。
あいまいな状況に耐えられない人、手っ取り早く成功をおさめてビールでも飲んで早くスッキリしたい人も、満足な臨床家にはなりにくい。
白黒をキチンと決めなければ気の済まない人も、果たしてどうだろうね。
バリント
治療者はクライエントを積極的に担おうとはせずに、たとえば、空が飛ぶ鳥を支えるように、水が泳ぐ魚を支えるように、大地が歩む人を支えるように、支えるべきである。
中井久夫
カウンセラーがけっして無理を強いないこと、強引にクライエントの秘密をもぎ取ろうとしないことなどを、特におのずと態度で示すことによって、クライエントに〝安心を贈り〟つづける必要がある。
それは何よりもまず、患者・クライエントの「気持ちを汲む」ことに務めることに他ならない。
更には「言いたくないことは、語らなくてもよい」保証を与える必要がある。
したがって「それから・・・それから」と先へ先へ問うてゆく面談は避け、ひとつの、できるだけ具体的個別的な事柄を、さまざまな角度からとり上げる方がよい。
患者・クライエントがカウンセラーと人間的な沈黙を共にできるようになることが、言語的交流に劣らず重要である。
光本和憲
(カウンセリングでは)情報は必要なとき・必要な分だけを得るようにする、というのが基本姿勢である。
そうなると、生育歴を総ざらいするような、いわゆるインテイク面接といわれているものは、森に分け入って、やたらめったら石を投げたり、大声で荒し回る、といった情報収集法であるため、治療効果を低下、もしくわ状態を悪化させかねない、ということである。
現在そういう情報収集法が、多くの相談・治療機関で常識となっており、そうした場で優秀な治療者として育つのは、かなり難しいと言わなければならないであろう。
会場からの質問
性急に結論ばかりを求め、しかも自分の都合のよい結論が出ないと納得しない人が、増えて来たような気がします。
じっくりとクライエントと向き合って、悩みを傾聴するなど、これまでの精神療法的なアプローチに限界を感じることがあります。
神田橋條治
精神療法的なアプローチというものに、誤解があるようだね。
じっくりと自分の問題と向き合って、自分の心を傾聴するような姿勢を相談者の中に育てるのが精神療法。治療者が傾聴するのは、そのモデルを示していることなんだ。
急いで結論を出さないという人間の姿のモデルを示して、そのモデルを相手の人の中に一緒に育てていって、やがてその人が、自分の心に耳を傾けながら考えていけるような人になるように、ということなの。
でも、そもそも治療者のほうでそれが出来ないのよね。せっかちで忙しくて。
中井久夫
面接の技術は、長い修練と工夫を経てしか身に付けることができない。

光本和憲
心理療法家は、自分自身の治療を終えたところまでは、クライエントを援助できます。
いいかえれば、自分自身の治療を終えていない間は、心理療法家は、本質的にはクライエントの治療ではなく、自分自身の治療を延々と続けている、ということです。
神田橋條治
自分とクライエントとが作っている複雑系の中で、治療が進んでいるのだ、ということを忘れて、自分は客観的な観察者であると思った瞬間に治療はうまくいきません。
実際の治療は、自分とクライエントとが共に織りなす複雑系の中で、様々なことが動いていっているということです。
カール・ロジャーズ
あなたにとっての最高の理論とは、ひとつしかありません。
それは、クライエントとの関係の中で、自分のあり方がクライエントに対してどんな影響を与えているかを、己への批評眼を用いて検討し続けながら、あなた自身があなた自身のために作り上げ、発展させたものがそれなのです。
神田橋條治
お母さんが、この子を叩くんですよね。そういう話を聴いた時に、「その現場に立ち会って自分の眼で見ていれば、もっといろんなことが分かるのに・・・」と思う習慣を身につけてください。
「あ、児童虐待のケースだ!」と思う方向に連想が動くなら、もう一生、治療者として大成する日はありません。
神田橋條治
一般に、ベテランになればなるほど、見立ての説明は自信なげです。自分に自信があるから、正直に振る舞えるのです。
格好よい見立てをするのは、おおむね未熟な治療者の、自他へのこけおどしです。

神田橋條治
〝気づき〟が本物であるときには、「前々から知っていた点を改めて知った」という感触を伴うことが多く、そのような特徴を持つとき、その気づきは必ず治療の力を発揮する。
中井久夫
精神療法には、狭い意味と広い意味とがある。
狭い意味の精神療法は、森田療法・認知療法・精神分析療法・行動療法・内観療法などなど、それぞれ特別の名で呼ばれている。
これに対して広い意味の精神療法は、治療者の一挙一動に始まる。
そして治療の場で起こる患者の言動と治療者側の言動が、治療上どういう意味を持つかを考えてゆくことである。こちらの方が、実はとてもむずかしい。
それは登山をする人ならば思い当たることだろうが、「この岩は手をかけても大丈夫だろか。この凹みはどう用いるのが良いのか。ここは滑りやすいから気をつけよう。このルートは一見よさそうだが、あそこのオーバーハングで行き止まりになりそうだ」などと考えながら、一歩一歩進んでいくことである。
この広い意味の精神療法がしっかりしていないのに、狭い意味の精神療法をおこなうことは危ない。
逆に、広い意味の精神療法がしっかりしている人ならば、その人が狭い意味の精神療法が何であろうが、その人の一挙一動から多くを学ぶことができる。
神田橋條治
『治療関係での確かさ』ということは、どういうことかというと、予測がつく、ということです。
たとえばここに水がありますね。で、このコップをこうしたら、水がこぼれるだろうと予測がつきますね。もしこぼれなかったら「えっ!?」とか思うでしょ。心が揺らぎ混乱ますね。そういうことです。
患者の側からみて、一瞬先の言動の予測がつくような治療者であるほど、患者を揺さぶらないですね。
「こんなことを言えば、先生はこう答えるだろう」と、だいたい予測して、その通りの答えが返ってくると、「ああやっぱり、私が思った通りだった」と思って安心するわけです。それが『確かな対象』ということ。
それがときどきまったく違うものが出たりすると、患者はびっくりします。「先生がばけた」と感じてしまう。

中井久夫
「望ましい治療像は何か」という議論がある。これは机上の空論だと思う。自然に落ち着くところに落ち着けばよい。
また、治療目標としては、「適応」という言葉も私は好きではない。むしろ「折り合う」という言葉を用いたい。
神田橋條治
臨床は複雑系ですから、研究の結果から直接に治療方法が導き出されることはありません。
ですが、種々の研究で示されている知見は、臨床家の思いつきを刺激する力があります。
木村 敏
ここでは慣例に従って「治療」という語を用いてはいるが(心理療法・カウンセリングにおける)治療という語の意味が特殊であることに、注意しておく必要がある。
つまり「治療する」とは(クライエントと)付き合ってゆくという意味と、それほど違わない。

下坂幸三
自分自身の身分が不安定で、Aという職場に一年、それからBという職場に三年、という具合に転々としながら心理療法をする。そういうこと自体がナンセンスです。
心理療法というものは、そもそもクライエントの気持ちの安定化をはかるというのが第一歩ですから、治療者の身分が不安定で渡り鳥みたいだったら、それはいかに達人といえども、よい治療はできません。
下坂幸三
経験の乏しい治療者は、時折あれこれの試みをする。
言語的な交流がおもわしくないとみると、すぐ絵を描かせる、あるいは箱庭を作らせてみる、行動療法の真似事をやる。
近頃は精神療法の流派(○○療法のたぐい)に関する啓蒙書が出揃っていることもあって、このような一貫性のない精神療法が試みられることもあるようだ。
これは患者に不安と混乱と不信感とを与えるだけで、治療の短期化はおろか多くの場合、治療の中断を招く危険がある。
したがって、目先の効果を狙うあまりさまざまな手法をごちゃまぜにすること自体、非精神療法的なはからいである。
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