
心因(しんいん)そして心因性という言葉が
どのようなことを意味しているかを
説明しています。
たんなる抽象的・概念説明ではなく
臨床や治療に即してお伝えしています。

はじめに
『心因性』という言葉が意味するものを
単なる抽象的な概念説明ではなく
臨床に即してお伝えしています。
お付き合いいただけると、幸いです。
* 臨床とは・・・
患者あるいはクライエントを、対象として扱い距離を置いて観察し操作する立場ではなく、一人ひとりとの〝治療的・相互関係〟に、自らの身を置く、という意味。
心因・外因・内因
歴史ある伝統的な精神医学では
昔から、様々な病態について
その病態の元にある発病要因を
心因性・外因性・内因性という
三つの領域に捉えてきました。
著名な精神科医・精神病理学者の
故・木村 敏氏が語ります。
木村 敏 精神科医・精神病理学
精神医学では以前から、内因・外因・心因の三つの原因領域を区別して考えていました。
心因性とは、心理的な要因が元になって生じた病態について云われる言葉です。
最近話題になっている「PTSD 心的外傷後ストレス障害」や「解離性障害」などは複雑なものですが、これも心因性です。
昔から神経症と云われてきた病像なども、もちろん心因性のカテゴリーに入ります。
というよりもむしろ、そういった神経症性の病像こそ、心因性の病態の代表的なものです。外因性というのは「器質性」というものと、だいたい同じ意味です。
身体あるいは脳に、具体的に確認できるような形で生じている疾患や病変によって、二次的に精神的な症状や病態を引き起しているものを指します。そして、こうした心因性・外因性を除いたものを「内因性の精神疾患」と呼んできました。
精神医学の中心的な病気、つまり統合失調症・本格的なうつ病(内因性うつ病)や躁うつ病、パラノイアと呼ばれる妄想病、それからいわゆる非定型精神病などは、すべて内因性に分類されています。精神医学という専門領域が、内科学から分離して存在している理由。単なる心療内科ではない精神科というものの存在意味。それが内因性の疾患なのです。
もしそれが心因性や外因性にすべて解消してしまえるものならば、精神医学の存在理由なんか、どこにもなくなってしまうはずのものなのです。

心因と心理的要因
木村敏氏の説明にあるように
心因あるいは心因性とは
端的に申し上げると
『心理的要因』と同じ意味になります。
そして心理の領域では
「心理的要因」という言葉が使われ
医学や医療の領域では
「心因」という用語が使われています。
心のプロセスと前意識
つまり、その人に現れている反応や症状が
自ら体験した(する)外的事柄や外的状況を
どのようなものとして内的に捉え
そして
どのようなものが心に生じたか
・・・という心のプロセスから直接的に生じている、と想像されるもの。
それを『心因性』
あるいは「心理的要因」と呼びます。
そして、この「心理的要因」という言葉が
間違ったイメージで
受け取られています。
関連ページ
誤解される「心理的要因」の意味
前意識について
しかも、大事なことは
これらの心のプロセスのほとんどが
『前意識』もしくは
『無意識』が舞台となっているために
〝心のプロセス〟から直接的に生じているとしても、本人自身でも意識化されることが難しい、ということがあります。
ちなみに前意識とは
「自覚的な意識」と「無意識」との
境界にある領域を意味しています。
そして前意識は、潜在的に
自覚的な意識とも無意識とも、交通可能な領域とされます。
ですので、幾つかの条件がそろえば
前意識にあるものが意識化されることが可能ですし、無意識にあるものが、前意識を通して意識化されることも可能です。
カウンセリングで〝気づき〟と云われているものが、それに当たります。
心因とは〝察する〟もの
心因性が意味するものについては
たんなる机上の概念説明ではなく
医療の立場から
臨床・治療に即して語っているのが
神田橋條治 (精神科医)氏です。
『神田橋條治 医学部講義』創元社。

「心因」というのはどういうことか。
たとえば、大阪の池田小学校で、たくさんの子どもさんが傷つけられたり、殺されたりしたけれども、死んだ人は当然心因反応を起こしません。生きている人だけが起こすものです。
あの事件の時、ケガをした人がいます。そばにいたけど免れた人がいます。見ていただけの人がいます。話を聞いた人がいます。
一つの事件だけど、関わり方によって人それぞれ条件が違う。状況が違う。
人に現れる精神的・心理的な症状は、だいたいショックの大きい人が重くて、小さい方が軽いだろうと思うね。これはその通りです。
だったら、たくさん傷を受けた人がいちばん重い心理的な症状が出てくるかというと、そうではありません。いろいろあるんです。
人 (個体)による違い
たとえば、話を聞いただけで、ひどい心理的な反応を起こす人もいます。
そうすると、ケガをしたとか、現場を見たとか、話を聞いたというのは、それぞれの人の状況であって、状況がそのままイコール心因の現れ方や程度に繋がるものではない、ということなんです。
つまり状況因と、それを受け取る個体(人)との組み合わせによって、変わってくるものなんです。
心に生じるもの
別の言い方をすれば
状況因とその個体(人)との関係の中で、ひとりの人の中に、ある心の体験が作られる。
だから心因とは、言い方を換えると、その人の中にどのような心の(内的な)体験を生じたか、ということでもあるのです。
そして「体験の意味」というものは、体験した人によって違ってくるものです。
したがって、いわゆる〝科学的〟ではないということで、「心因反応」という言葉は曖昧だから使われないことになっていった。
つまり「心の体験」というものは数値化できるものではないし、本人の言語表現によってしか、他人からは捉えようがない。しかも、本人だって言語化できないことが多い。
だから〝科学的な概念〟としては曖昧だということで、心因という言葉は診断学のいろんな体系からは排除されたの。
心因とは〝察する〟もの
なのに、なぜ精神科では「心因反応」という言葉を使うのか。それは臨床や治療の現場で、「心因」という言葉が、いつも頭にあるといいからなんです。
そして「心因」というものは何によって捉えられるかというと、「察する」ことによって捉えられるんです。
心因の存在は、診断されるわけではないの。
そうじゃなくて、心因というのは「○○じゃないだろうか・・・」と想像して、察してあげるわけです。
さっき話に出た八十四歳のおじいさんだったら、「この人がウツになられたのは、やはり歳を取って、いろんなものから離れてしまったために、喪失感を深くして憂うつなられたのだろうなあ」と察する作業がある。
それがなくて「症状評価尺度でやったら『うつ』だから抗ウツ薬を出す」となると、それは生身の人間というものを考えない〝(似非)科学〟です。
数値化されるものだけを取って、それで薬を出すという形になると、人の命はメチャクチャになってしまう。
察する力を残してゆく
何故なら、治療や臨床には〝数値〟では捉えられない要因がたくさんある。
そのときに、医療従事者に「察する」力があれば、道具としての医学を間違った使い方で患者に用いることがないようにできる。
そういう「察する力」を残すために心因という言葉は、まだ残しておいた方がいいんだと思います。
神田橋條治
カテゴリー【臨床のはなし】