朝の憂愁

忘れられてゆく「昨日」の記録として


このエッセイは、十年以上前に
(2021年時点)記したものです。


このところ鉄道の人身事故が、とても増えている気がする。毎日のように、人身事故を知らせる駅の電光掲示を、目にしている気がする。

五月の連休が終わった最初の日、あちこちの路線で人身事故が重なった。
まるで連休が終わるのを待っていたかのようにして、電車に飛び込んだ人たちがいた。

ところで、現在「人身事故」と呼んでいるけれど、それまでは、テレビのニュースや新聞でも「飛び込み自殺」と報じていた。
いつ頃から呼び方が変わったのだろう。
定かには思い出せないが、もしかするとバブルが崩壊してからだったか?

朝のテレビニュースをご飯を食べながら見ていた時に、「そうか、飛び込み自殺から人身事故へ呼び方を変えたんだ」と気づいた時のことが、なぜか強く印象に残っている。

たしかに理屈の上では、自ら飛び込んだのか、それともアクシデントで電車とぶつかったのかは、死んでしまった後では本人に訊くこともできないから、誰にもわからない。
だから人身「事故」としても、理屈の上では通っている。

でも、このコトバの「言い替え」は、うまく説明できないが、何故だか、わたしを妙に不快にさせるものがあった。
亡くなった人たちも、「事故」では浮かばれなかろう、と勝手に思ってしまうのだ。

あれはまだ二十代半ばの頃だった。

ある事を思い悩み抜いて、少しノイローゼ状態で、頭の中がそれだけになっていたとき。
ある夜、歩道を歩いていて、横を走り抜ける自動車の方へ、身体が吸い込まれていきそうになる自分と、それをなんとか押しとどめようとする自分の、二人いた時があった。

歩いていると、いつの間にか車のヘッドライトへ向かって、身体が傾いていく。
それは文字通り「吸い込まれていく」ような感覚だった。

たとえて云えば、魂が身体を道連れにして、スッとそちらへ寄っていく・・・みたいな。
身体の重力が消えているような、奇妙な感覚があった。

「このままではまずい」頭の隅でそう思う自分がいた。なにより苦しかった。

「魂」は、魂だけでは何もできない。「脳」だけあっても、何も出来ないのと同じように。だから魂は、いつも身体を道連れにする。

その経験を思い出すためかどうか、わたしは「人身事故」の電光掲示を目にするたびに、「ああ、また吸いよせらせて行った(逝った)人がいたんだな」という思いが、よぎるのです。

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