朝の憂愁

 そう感じるだけかも知れませんが、このところ鉄道の人身事故がとても増えている気がしている。
 わたしは埼玉県と東京都内とを電車で往復していますが、このところ、毎日のように人身事故を知らせる駅の電光掲示を目にしています。
 五月の連休が終わった最初の日、あちこちの路線で人身事故が重なりました。あたかも、連休が終わるのを待っていたかのようにして、電車に飛び込んだ人たちがいらしたのです。

 現在「人身事故」と呼んでいますが、以前には「飛び込み自殺」と云っていました。
 いつ頃から呼び方が変わったのだろう。定かには思い出せないが、もしかすると、バブルが崩壊してからだったか? 
「そうか、飛び込み自殺から人身事故へ呼び方を変えたんだ」と気づいたときのことが、なぜか強く印象に残っている。
 
 たしかに理屈の上では、飛び込んだのか、それともアクシデントで電車とぶつかったのか、死んでしまった後では本人に訊くこともできないから、誰にもわからない。だから人身「事故」としても、理屈の上では通っている。でも、このコトバの「言い替え」は、なぜだか、わたしを微妙に不快にさせるものがある。
 亡くなった人たちも、「事故」では浮かばれなかろう、と勝手に思ってしまうのだ。

 あれはまだ二十代半ばの頃だった。
 ある事を思い悩み抜いて、頭の中がそれだけになっていたとき。道を歩いていて、横の車道を走り抜ける自動車の方へ、身体が吸い込まれていきそうになる自分と、それをなんとか押しとどめようとする自分の、二人いた時があった。
 歩いていると、いつの間にか車のヘッドライトへ向かって、身体が傾いていく。それは文字通り「吸い込まれていく」ような感覚だった。
 たとえて云えば、魂が身体を道連れにしてスッとそちらへ寄っていく、みたいな。身体の重力が消えているような奇妙な感覚があった。このままではまずい、頭の隅でそう思う自分がいた。なにより苦しかった。
「魂」は、魂だけでは何もできない。「脳」だけあっても何も出来ないのと同じように。だから魂は、いつも身体を道連れにする。

 そのせいかどうか、わたしは人身事故の電光掲示を目にするたびに、「ああ、また吸いよせらせて行った(逝った)人がいたんだな」という思いが、よぎるのです。

お読みいいただけると幸いです
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